掃除の頻度は特に決まっていません。インターネットのある現代では他人がどれぐらいの頻度で掃除をしているかを聴くことができます。
なにもすることがないので掃除をするしかないという方やポリシーとして行う方、或いは儀式的に行うかたもいらっしゃることでしょう。
お坊さんは毎朝掃き掃除をします。学校では掃除が義務付けられ、先生もそれに参加しています。
でもなぜそれをする習慣をもつに至ったのか、しなければならない理由があるかをみんな深く問おうとはしません。掃除はその場を清め、快適にすることを身体的に理解しているからです。
身体実感としてメタに理解できる概念(この場合”掃除”)の意味を敢えて問おうとはしません。
そうして私たちは掃除を進んで行い、きれいになっている場を観て悦に浸るのです。そしてその悦に浸ったあと、またそれが外的な要因や時間の経過によって汚されていくのを恐れ定期的に敢行するようになるのです。私の予想の範疇でしかありませんが、定期的に掃除をするようになったのは全員がそれについての快適さに合意できたからだと思います。始まった当初は「快適さ」が理屈・理屈を超えていたことでしょう。